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No. 15590 マッピン&ウェブ ヴィクトリアン スターリングシルバー サービングフォーク
with ピアストワーク
長さ 22.9cm、重さ 90g、透かし部分の最大横幅
5.45cm、柄の最大幅 2.0cm、柄の最大厚み 4.5mm、1900年
シェフィールド、Mappin & Webb作、四万八千円
マッピン&ウェブのスターリングシルバー サービングフォークで、ピアストワークの美しいヴィクトリアン アンティークです。 作られたのは今から百十以上前の1900年、19世紀最後の年にあたり、またヴィクトリア時代最後の年でもあります。 ちょうど夏目漱石がロンドンに留学していた頃でもあります。 かなり古いアンティークであることがお分かりいただけると思いますが、コンディション良好なヴィクトリアーナであるところもポイントです。
一般に透かし細工のシルバーウェアは、エドワーディアン以降に多いものですが、さすがはマッピン&ウェブ、当時としては先進的な有力シルバースミスであった為でしょう、素晴らしいアンティークを残してくれています。 ヴィクトリアン シルバーウェアでこれほどの透かしというのは珍しいように思います。
90グラムと持ちはかりがあって、手にしてみても頑丈な印象です。 ゴージャスなシルバーウェアに仕上がっています。 柄の最大厚みは4.5ミリとしっかりで、透かし部分でも柄元に近いあたりは2ミリほどの銀の厚みがあります。
柄元に近いところにフラワーエングレービングが見えています。 忘れな草のような花が二つ、繊細で優雅な彫りは綺麗です。 15584 サーバーと、15590 サービングフォークはペアで求めたもので、もともとはセットになります。
写真四番目に見えるように、柄の裏面には四つのブリティッシュ ホールマークが刻印されています。 ホールマークは順にシェフィールド アセイオフィスの王冠マーク、スターリングシルバーを示すライオンパサント、1900年のデートレター、そしてMappin
& Webbのメーカーズマークになります。
また柄先には紋章が彫られているのも興味深い特徴です。 下部には横棒のように見えるリースが認められ、アザミの上に鳥がおり、全体でクレスト(紋章)を構成しています。
メーカーは言わずと知れた有名工房ですが、このシルバースミスの歴史をご紹介しましょう。
マッピン関連のアンティークを扱っていると、「Mappin
& Webb」とよく似た名前の「Mappin Brothers」というシルバースミスに出会うことがあります。
「Mappin Brothers」は1810年にジョセフ マッピンが創業した工房で、彼には四人の後継ぎ息子がありました。四人は上から順にフレデリック、エドワード、チャールズ、そしてジョンで、年長の者から順番に父親の見習いを勤めて成長し、1850年頃には引退した父ジョセフに代わって、四兄弟が工房を支えていました。
ところが末っ子のジョンは、工房の運営をめぐって次第に兄たちと意見が合わなくなり、ついに1859年には「Mappin
Brothers」を辞めて独立し、「Mappin &
Co」という銀工房を立ち上げました。 以後しばらくの間、「Mappin
Brothers」と「Mappin & Co」は「元祖マッピン家」を主張しあって争うことになります。
しかし最初のうちは「Mappin Brothers」の方が勢力があったこともあり、1863年には末っ子ジョンの「Mappin
& Co」は「Mappin & Webb」に改名することとなりました。 Webbというのはジョンのパートナーであったジョージ ウェブの名から来ています。
「元祖マッピン家」問題では遅れをとったジョンでしたが、兄たちよりも商売センスがあったようです。 スターリングシルバー製品以外に、シルバープレートの普及品にも力を入れ、目新しい趣向を凝らした品や新鮮なデザインの品を次々と打ち出し、しかも宣伝上手だったのです。 ヴィクトリアン後期には当時の新興階級の間でもっとも受け入れられるメーカーに成長し、それ以降のさらなる飛躍に向けて磐石な基盤が整いました。
20世紀に入ってからの「Mappin & Webb」は、「Walker
& Hall」や「Goldsmiths & Silversmiths
Co」といったライバルの有名メーカーを次々にその傘下に収めて大きくなり、今日に至っています。 また「Mappin
Brothers」ですが、時代の波に乗り切れなかったのか、1902年には「Mappin
& Webb」に吸収されてしまっています。
紋章の基礎知識について、少しお話しましょう。 紋章はコート
オブ アームズと言うのが一般には正式です。 クレストという言葉もありますが、クレストとは紋章の天辺にある飾りを言います。 紋章の各部分の名称として、例えば英国王室の紋章の両サイドにいるライオンとユニコーンの部分をサポーターと言い、中央の盾状部分をシールドまたはエスカッシャンと言います。 さらに細かく言うと、写真のサーバーに刻まれた紋章では下部に棒状の飾りが見えますが、これはクレストの台座であって、リースと呼ばれます。
ただし、紋章のすべてを描いて使うのは、大掛かり過ぎるので、その一部をもって紋章とされることも多く、中紋章とか大紋章という言い方もあります。 しかし、その区別は厳密でないので、紋章の一部をもってコートオブアームズという言い方をしても差し支えありません。
コート オブ アームズ(=紋章)を使っていた人々とは、どういう階層の人たちであったのか、考えてみました。
コート オブ アームズの体系化や研究は、イギリスにおいて九百年ほどの歴史を持っており、紋章学(Heraldry)は大学以上の高等教育で学ぶ歴史学の一分野となっています。 中世ヨーロッパにおいては、多くの国々に紋章を管理する国家機関がありました。 今ではなくなっているのが普通ですが、面白いことにイギリスでは紋章院がまだ活動を続けています。
今日のイギリスは品のよい国のように見られることが多いですが、歴史を紐解きますと、節操のないことで名高い時代も長くありました。 キャプテン・ドレークは世界を航海して略奪をきわめて、当時の国家予算に匹敵するほどの金銀財宝を奪って帰ってきたので、エリザベス一世から叙勲を受けました。 お金がすべてという傾向は、紋章院においてもあったようです。
紋章学や紋章院の働きについて書かれた本が、『HERALDRY
IN ENGLAND』(Anthony Wagner著、Penguin Books、1946年刊)です。
この本によりますと、紋章院が認めてきたコート
オブ アームズは四万あるとのこと。
一方で英国の王侯貴族にあたる家柄は千足らずとなっています。
この数字のバランスから分かることは、第一にコート
オブ アームズは王侯貴族だけのものではないこと。 第二に、そうは言っても、代々伝わるコート
オブ アームズがある家系は、英国の中でも数パーセントに過ぎず、その意味で日本における家紋とはだいぶ違っていること。
産業革命が進行して、新興富裕層が厚くなってきたのがヴィクトリア時代の初め頃になります。 当時の富裕層はコートオブ
アームズを求めましたし、また求めれば手に入る性質のものであったようです。
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