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No. 15033 ジョージアン スターリングシルバー フィドルパターン デザートスプーン with シェル & エレファント クレスト
長さ 17.3cm、重さ 32g、ボール部分の長さ 6.1cm、最大幅 3.6cm、ボールの深さ 1.0cm、1827年 エジンバラ アセイオフィス、SOLD

二本目になります。 もうこれ以上はないようで、本件仕入れは完了となります。

今から百八十年ほど昔、ジョージアンの時代に作られたスターリングシルバー フィドルパターンのデザートスプーンです。 柄先に彫られた手彫りのクレスト(紋章)は「王冠をかぶった象」のデザインで珍しく見ました。 その先にはシェルのレリーフ飾りが付いているのも興味深く思います。

エレファントのデザインと言えば、それはインド風であって、イギリス風ではないのでは?と思われるかも知れません。 ところが、長い間インドを植民地にしていたイギリス人にとっては、インドのものはイギリスのものといったメンタリティーがあるようで、面白く思っております。 

例えば、近所にある古くからのパブに「Elephant and Castle(象と城)」という名前がついていて、地元の人たちは百年以上前から慣れ親しんでいます。 また、チャールズ皇太子が典型的なイギリス料理は?という質問に、カレーと答えて話題になったことがありました。 日本人の私たちから見れば、カレーはどう考えたって、インド料理であって、イギリス料理とは思えないのですが。

ホールマークを調べてみると、お城のマークが刻印されていて、スコットランドのエジンバラ アセイオフィスで検定を受けた品であることが分かります。 英国のホールマーク制度にあっては、ロンドン、シェフィールド、バーミンガムのアセイオフィスの役割が大きくて、三つを合わせたシェアは9割ほどになるでしょう。 逆に言えば、それ以外のアセイオフィス マークが刻印されたシルバーウェアは珍しいので、そこにレア物の価値を見出すコレクターがいるのです。

柄の裏面に刻印されたホールマークは順に、メーカーズマーク、ジョージ四世の横顔でデューティーマーク、エジンバラ アセイオフィスのキャッスルマーク、スターリングシルバーを示すアザミマーク、そして1827年のデートレターです。

ついでに、エジンバラ アセイオフィスのホールマークについて、この機会に概観しておきましょう。 スコットランドの銀製品がエジンバラで検定を受けるようになったのは遠く1457年にまで遡ります。 そしてエジンバラのアセイオフィスマークである「The Three Towered Castle」が導入されたのは今から 520年前の1485年のことです。 エジンバラに行ってみますと、小高い岩崖の上に街を見下ろすように建つエジンバラ城が、この街の象徴であることがよく分かり、お城がマークとされたのも頷けます。 「Thistle(=アザミ)」マークは、それまでアセイオフィス マスターのイニシャルをもって、銀のスタンダードマークとされていたものに代えて、1759年に導入されたマークで、イングランドで言えばライオンパサントにあたる刻印になります。

このスプーンのパターンは柄の形がヴァイオリン(Fiddle)に似ていることから、フィドルパターンと呼ばれます。 もともとは18世紀のフランスで人気だったこのフィドルパターンは、19世紀に入った頃からイギリスでも次第に流行っていきました。 フィドル パターンについてはアンティーク情報欄「4.イングリッシュ スプーン パターン」の解説記事もご覧ください。

それから、エレファントの下には縞が入った棒状の台座がありますが、これはリースと呼ばれ、英仏に限らずヨーロッパでは中世以来の伝統を持つ紋章文化に共通した特徴になります。

せっかくですので、この機会に紋章の基礎知識について少しお話しておきましょう。 紋章はコートオブ アームズと言うのが一般には正式です。 クレストという言葉もありますが、クレストとは紋章の天辺にある飾りを言います。 紋章の各部分の名称として、例えば英国王室の紋章の両サイドにいるライオンとユニコーンの部分をサポーターと言い、中央の盾状部分をシールドまたはエスカッシャンと言います。 さらに細かく言うと、写真のスプーンに刻まれた紋章ではエレファント足下に棒状の飾りが見えますが、これはクレストの台座であって、リースと呼ばれます。

ただし、紋章のすべてを描いて使うのは、大掛かり過ぎるので、その一部をもって紋章とされることも多く、中紋章とか大紋章という言い方もあります。 しかし、その区別は厳密でないので、紋章の一部をもってコートオブアームズという言い方をしても差し支えありません。

ちなみに、このコート オブ アームズの体系化や研究について、中世ヨーロッパにおいては、多くの国々に紋章を管理する国家機関がありました。 今ではなくなっているのが普通ですが、面白いことにイギリスでは紋章院というのがまだ活動を続けています。 イギリスの紋章学(Heraldry)は九百年ほどの歴史を持っており、大学以上の高等教育で学ぶ歴史学の一分野となっています。 

コート オブ アームズ(=紋章)を使っていた人々とは、どういう階層の人たちであったのか、考えてみました。

今日のイギリスは品のよい国のように見られることが多いですが、歴史を紐解きますと、節操のないことで名高い時代も長くありました。 キャプテン・ドレークは世界を航海して略奪をきわめて、当時の国家予算に匹敵するほどの金銀財宝を奪って帰ってきたので、エリザベス一世から叙勲を受けました。 お金がすべてという傾向は、紋章院においてもあったようです。

紋章学や紋章院の働きについて書かれた本が、『HERALDRY IN ENGLAND』(Anthony Wagner著、Penguin Books、1946年刊)です。

この本によりますと、紋章院が認めてきたコートオブアームズは四万あるとのこと。
一方で英国の王侯貴族にあたる家柄は千足らずとなっています。

この数字のバランスから分かることは、第一にコートオブアームズは王侯貴族だけのものではないこと。 第二に、そうは言っても、代々伝わるコートオブアームズがある家系は、英国の中でも数パーセントに過ぎず、その意味で日本における家紋とはだいぶ違っていること。

産業革命が進行して、新興富裕層が厚くなってきたのがヴィクトリア時代の初め頃になります。 当時の富裕層はコートオブアームズを求めましたし、また求めれば手に入る性質のものであったようです。

かなり古いスプーンをお求めいただいたお客様から、ジョージアンの時代に銀器を使っていた人たちはどんな人たちだったのかというご質問をいただきました。 遠い昔に銀器を使っていたのは豊かな人たちであったに違いありませんが、この問題はよく考えてみると、もっと奥の深い問題であることが分かります。

ジョージアンの時代に銀器を使っていた人たちは、百年ほど前のヴィクトリアン後期に銀器を持っていた人たちよりも、一段と社会階層が上のお金持ちだったと思われます。 ジョージアンの時代には、まだまだ銀は社会の上層階級の占有物であったからです。 ヴィクトリア期には英国の経済力も大いに伸長したので、ヴィクトリアン後期の英国では銀器が新興富裕層にまで普及し、その裾野が広がりました。 つまり銀器を使った昔のお金持ちといっても、ジョージアンの時代とヴィクトリアンの時代ではその意味合いや程度が大きく異なるのです。

「International Hallmarks on Silver」という本に、過去の銀世界生産量推計という面白い資料がありました。 その資料によれば、1830年当時の年間生産量は460トンほどで、ヴィクトリア時代最後の1900年は5400トンとあります。 時代と共に生産量が十倍以上に増しているわけですが、逆にみると、より昔の時代における銀の希少性について、お分かりいただけるのではないでしょうか。

ジョージアンとヴィクトリアンでは銀のスプーン一本を取ってみても、そのステータスシンボルとしての価値はかなり違っていたわけです。 もっと詳しく知るためには、英国社会史や経済史の理解が不可欠になりましょう。 これからも少しずつ調べて、個々のアンティークが持つ時代背景について、英吉利物屋サイトでお伝えしていければと思っています。

銀の価値を考えているうちに、もしこの銀スプーンを江戸時代にタイムスリップさせたら、いったいどのくらいの価値があったものだろうかと思考実験をしてみました。 当時の英仏独伊といった国々のスタンダードは金銀複本位制で、銀の地金はマネーと等価であり、各国通貨への換算額も容易に計算できます。 ところが、江戸時代の日本では違った貨幣制度が採用されておりましたので、ややこしいところがあります。 

例えば時代劇など見ておりますと、両替商というのが出てきて、しばしば御奉行様と結託しては悪事を働いたりしております。 両替商の仕事といっても、鎖国の江戸時代に、海外旅行用の外貨両替なんてことはありえません。 それでは、この両替商はいったい何を両替していたのでしょうか。 江戸時代の日本では、金貨である小判と、銀貨、そして寛永通宝といった銭、これら三種マネーの交換レートが市場にまかされており、変動相場制になっていました。 極論すれば、ドルとユーロとポンドというレート変動する三通貨が一国の中で流通していたようなもので、そこに両替商の存在意義があったのです。

そんなわけで、写真の銀スプーンは一種の銀地金でありますが、江戸時代のマネーに換算するには、小判か銀貨か銭か、難しさが伴うのです。

ここでは、なるべく簡単な試算ということで、天保一分銀への銀地金換算をしてみましょう。 イギリスでヴィクトリア時代が始まった1837年は、日本では天保8年にあたり、この年から天保一分銀の鋳造が始まっています。 天保一分銀は江戸時代の中でも、特にエポックメイキングな銀貨であって、それがまたヴィクトリアンと重なっていることから、この銀貨について少し詳しくなるのもよいでしょう。

天保一分銀の重さは8.62グラム、銀純度は99%ほぼ純銀でした。 写真のスプーンは重さが31グラムのスターリングシルバーですから、銀の重さは31g*92.5%=28.7gとなります。 そうしますと、銀地金換算で、この銀スプーンは天保一分銀 3.3枚ということになります。 

これはざっくり言って小判が一枚弱ということで、当時の国際標準からすると相当な金額になってしまうのです。 その理由は徳川幕府の貨幣制度にありました。 幕府は長い年月をかけて銀高金安誘導に成功し、天保一分銀の鋳造をもって、素材に銀を含むことから銀貨ではあることは間違いないけれども、その実態は銀高金安を固定する計数貨幣を完成させたのでした。 

江戸時代の人々は小判と銀貨を使ってはおりましたが、その貨幣制度は「自由な貨幣鋳造」が認められていなかったという点で、金銀複本位制というよりも、むしろ現代の管理通貨制度に近い仕組みでありました。 なお、「自由な貨幣鋳造」とは、人々が造幣局に持ち込んだ金銀の地金を、造幣局が金属的に等価な金貨あるいは銀貨と交換してくれることを意味します。 

ジョージアン スターリングシルバー フィドルパターン デザートスプーン with シェル & エレファント クレスト




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